1977年、ニューヨークの「パラダイス・ガレージ」でDJを務めていたフランキー・ナックルズ[1]が、シカゴにオープンした「ウェアハウス」の主力DJとして招かれ、高い人気をえた。そのレコードが「ハウ
ス・ミュージック(ウェアハウス・ミュージック)」として販売されたのがハウスという呼び名の始まりと言われている。
この時点でのハウス・ミュージックは、フィラデルフィア・インターナショナルレーベルやサルソウルレーベル(フィラデルフィア・ソウル=フィリーソウル)の類似品の域を脱していなかった。その後、ナックルズ は「ウェアハウス」の経営者と衝突して解雇され、新たにシカゴで「パワープラント」というクラブを立ち上げる。一方、「ウェアハウス」は「ミュージック・ボックス」と名を改め、カリフォルニア州から新たにDJロン・ハーディーを招聘する。このナックルズとハーディーの 間の競争により、シカゴはダンス音楽シーンにおけるその地位を確立してゆく。
彼らのプレイスタイルはラリー・レヴァンの「ガラージュ」と呼ばれるスタイルの強い影響下にありながらも、ドラムマシンを導入したり、よりアグレッシブな選曲の傾向を持ち、のちのハウス・ミュージックの原型となった。 またシカゴの地元のミュージシャンたちがこの影響を受けてTR-909(当時は音色にリアリティがないとして不人気だった)を さかんに使用するようになり、それらの曲が上記のクラブにフィードバックされ、TR-909はハウスにおける必須の楽器としての地位を確立した。
ハウスミュージックはドラムマシンを使用して短いフレーズを繰り返すスタイルが確立されてからも、フィリーソウルを模したものが多かった。その意味 では、少なくとも1980年代まではソウルミュージックの派生物であったと言えよう。また、先駆者であるレヴァンがDJを務めていた「パラダ イス・ガラージ」と同様に、初期のシカゴ・ハウス・シーンもまた黒人のゲイが客の中心であった。
1980年代中期以降、シカゴ・ハウスの隆盛やガラージュ人気の世界的な波及に伴い、世界各地でハウスを主体とし たイベントの開催やアーティスト・DJの登場が相次ぎ、徐々に黒人以外の人種層にも浸透していく。決定打となったのは、1987年にイギリスのアーティストであるM/A/R/R/Sが リリースした『パンプ・アップ・ザ・ヴォリューム (Pump up the Volume)』の世界的なヒット、及び1988年にイギリスで起こったレイブ (音楽)の流行(「セカンド・サマー・オブ・ラブ」)である。こうした出来事をきっかけにハウスの中心地はアメリ カのシカゴからイギリスのロンドンに移行する。現在、ハウスの主要な消費地はアメリカ国外のヨーロッパや日本で ある。ニューヨークなどで製作されるハウスのシングルレコードの7割近くが国外に輸出されているとも言われている。
1990年代に入ってからは音楽ジャンルの細分化が進み拡散していく一方、メジャーのアーティストがハウス音楽の 独特のリズム(4つ打ち)を多用するようになるなど、さらに一般化の道を進んだ。現在ではアメリカ、イギリスやイタリアを中心としたヨーロッパやオーストラリア、イスラエル、日本を 中心としたアジアなど、世界各地に大規模な支持層が存在する。
